初めに私貿易を目的としていたが、島々には食物が少なくて、朝鮮半島で食べ物を見つけるために沿海を略奪しはじめました。主な目的は税金とした米や穀がありました。倭寇は米を運んでいた高麗王国の船と米が蓄えられた蔵を攻撃したり強奪したりした後、船に戻って日本の沿海へ逃げて隠しました。時々、高麗王国の地域で上陸して、国の奥にも入り込んで行きました。その時、米穀を略奪しただけではなくて、町を焼いたり、財産を盗んだりして、朝鮮半島の人民を殺害しました。また、日本には戦争や災いため労働力人口が少なくなってしまってから強制連行した朝鮮人を奴隷にさせました。
元寇のとき、1274年と1281年に、一般的に十三世紀の末、倭寇の活動は消滅しました。しかし、十四世紀の前半にモンゴルの危険が滅びたただちに、倭寇の活力は倍になって、もう一度相手国に深刻な脅威を与えて重大な問題になってしまいました。高麗史という高麗朝の年代記によると十四世紀にかけて倭寇は約五百回侵入しました。襲撃した倭寇の集団は数十から数百数隻まで、乗員の数は数千人にのぼったと記録されました。朝鮮を侵入していただけではなくて、明帝国、いわゆる、明朝が支配していた中国は新たな標的になりました。
中国では1368年に明王朝が建国されました。直ちに日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣されました。日本には南北朝の動乱があって、九州に派遣された明王朝の使者は南朝と関係があった懐良親王に会いました。懐良親王は明王朝から冊封を受けて、「日本国王」と称しました。その後、幕府から派遣された今川貞世は九州の南朝勢力を討伐しました。結局、足利幕府将軍の足利義満が南北朝統一して、明王朝から冊封を受けるために倭寇討伐を行って、その結果、「日本国王」になりました。
高麗と明帝国は倭寇に対していろいろな対策しました。一つは沿岸に沿って多くの要塞を建てたものでした。しかし、一番効果的な手段は戦いだったとみえます。最も有名な倭寇に対して戦った高麗王国の大将は李成桂(韓国語でYi Seong Gye)といって、彼は1383年に倭寇軍に大打撃を与えて、1389年に対馬を侵攻しました。倭寇船三百隻以上を撃破し、捕虜を救出し、町を焼き討ちして帰還しました。これ以降倭寇の侵入は激減しました。倭寇討伐で名声を得た李成桂は高麗王国を倒して李氏朝鮮を建国しました。倭寇の勢力は著しく衰退したが、朝鮮への侵入が完全になくなることはありませんでした。しかし、1419年に朝鮮王朝が軍を対馬に送って倭寇を撃破しました。同年に遼東半島で明軍敗れたことが致命傷となりました。
パベウさん、倭寇の活動は頂点は十六世紀にあったね.前の地図からよく見えるね。でもなぜなくなったか。十七世紀とか十八世紀とかその地域で海賊の活動は全然なかったか。そのことについてパベウさんは資料が見付けたか。その上十九世紀はどう?
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